スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[--/--/-- --:-- ] | スポンサー広告
冬から春を越えて夏に
今日で5ヶ月になります。

8月のこの時期、原子爆弾がヒロシマ、ナガサキに投下された日が続き、
お盆に終戦記念日がやってきます。
震災が有ったのは3月ですが、毎月11日は何故か『震災の日』のような気がして、
多分これから先、8月のこの頃、東北に起きた巨大な悲しい震災を思い出すような気がします。




あの日はですね、あの時一番命の危機に有ったのは、石巻の保育園で給食のおばちゃんをしている、
義妹でした。
義妹のMちゃん(以下Mちゃんでいきます)は、石巻の街の中に有る、
比較的港に近い場所に有る保育園が仕事場でした。
石巻は北上川の河口に広がる街で、人々は平野部と三陸海岸の始まりに当たる山間などに暮らしています。
保育園は全くの平坦な処に有りました。

午後3時前。
保育園では遅いお昼ねタイムで、園児たちは薄着で暖かい部屋の中で寝ていました。
まだ保護者は誰も迎えに来ていませんでしたから、全員揃っていました。
そこにあの大きな揺れ、そして津波による非難警報です。
保母さん、事務員さん、給食のおばちゃん、総出で園児に服を着せ、靴を履かせ、帽子を被せ、
身支度をさせました。
そして自分達もありったけの洋服を重ね着して、逃げる準備をしました。
この間40分余り。
しかし体感した時間は10分くらいにしか感じられなかったそうです。
手が震え、なかなか思うように出来なかったと、Mちゃんは言っていました。
外は雪が降っていました。

でも、この人数の幼い子供達を連れて、一体何処へ?
保育園は地べたに這い蹲るような建物です。建物内には留まれません。
そんな時園長先生がとっさに指示を出しました。

「向かいの東北電力の建物へ逃げましょう!」

子カモを連れて歩く親カモのように皆で東北電力の建物へ。
3階まで皆を押し上げるように昇らせて、まだ余裕が有るならもっと衣類を寝具をと戻りかけて、
1階のところまで階段を降りた時、瓦礫を巻き込みながらジワジワと水が上がって来たそうです。
もうダメだ、戻れないと諦め、電気の落ちた寒々とした建物の中で、
皆寄り添い夕闇を迎えたそうです。
当然保護者とは連絡は取れず、迎えに来る者もおらず、どんどん暗くなっていく中、
彼女たちは励まし合いながら、時間を過ごしていきました。

夜になって、何を思ったか、いきなりMちゃんの旦那Hが、真っ暗な中胸まで水に浸かりながら、
Mちゃんを探しにやって来ました。
Hの身長は170㎝強。水かさは150㎝を超えていました。
所々は泳いだそうです。
人は、こういう時、思いも寄らぬ行動をするものなのですね。
家族が止めるのも聞かずに、家を出たそうです。
でも、一人では危険です。余震も来ていましたし、また何時余震による津波が有るやしれません。
しょうがないので、春から消防に配属されるはずだった甥っ子K君も一緒に出かけました。

本当は二人でだってダメなんです。こういう時はどんなに心配であっても、
夜間、明かりの全く無い水浸しの街には出掛けてはいけないのです。
これは自殺行為なんです。二次災害に繋がるのです。
もしMちゃんがダメで、それを知らず出掛けて行った先で二人に何か有ったら、
3人も家族が亡くなってしまうのです。
後には祖父母と東京の学校に来ている姪っ子のCちゃんだけに、なってしまうのです。
残された3人は、あの時もっと強く引き留めればよかった、東京に出て来ていなければよかったと、
後々ずっと後悔の念を残すでしょう。


しかし幸いな事に、HもK君も東北電力に避難していたMちゃんと会うことが出来ました。
神様、ありがとうございます。
そしてそれからの一週間、被災地は外部との連絡が絶たれた状態で過ごすことになります。
電気、ガス、水道、もちろんトイレも使えません。
街の要の市役所は末端まで合わせての全職員のうち三分の一を喪っていました。
しかし仕事は待ってはくれません。
悲しんでいることも、地震や津波のトラウマも許してくれません。
狩り出されたMちゃんは家族と離れて、避難所に詰めることになりました。
一週間のうち平日泊り込んで、週末家に帰るという生活が始まりました。

避難所は当時大小合わせて石巻には200余りも有りました。
それぞれの地域のコミュニティで運営出来ているところも有れば、
何百人も同居する大所帯もありました。
Mちゃんたちはその巨大な避難所に、主に派遣されたそうです。
しかし職員の人数は足りていませんから、僅かに数人、しかも女性もいます、そして初対面です。
クライシスを想定して訓練もされていません。
何百人もいる学校で、順番に食事の手配をする、トイレの管理、搬入される物資の振り分け、
諸事の伝達、避難民の要望等々、
体力的にも精神的にもどんどん消耗していったそうです。
(仕事仲間は肩を壊し途中で戦線離脱してしまいました)
何より、石巻という街が全く機能していないので、
避難民の衣食住は不満だらけ、不備だらけで、往生することが多々有ったそうです。
そんな中、お世話をしている彼らに不満をぶつけて来る人も多く、
皆精神的にも参ってしまったそうです。
特に家が残っていた、家族が無事、そんな事を持ち出されるのが辛かったと。

一週間して、ようやく携帯からMちゃんが連絡してきました。
皆無事、家も大丈夫、奇跡的に保育園に乗って行っていた車も無事(!)
今はとりあえず米と畑の作物で食いつないでいるから、というものでした。
Mちゃんの嫁ぎ先は、街から離れた処にあって、難を逃れましたが、
家の目の前の道を挟んで有る田んぼには、北上川の支流を遡って瓦礫が流れ付いていました。
ホント、ここもあと少しで被災するところでした。
二週間して、東北道が一般車にも開放され、相方が物資を姪っ子のCちゃんを乗せて、
石巻に向かったのですが、最初に登米の実家に寄って海に向かったところ、
あちらこちらで道が寸断され、通行止めになっていました。
困った事に田舎って一本道が多いんですよね。
ダーッと車を走らせて何㎞も行ってはじめてバリケードとか、
警官が立っていて一般車はダメだよ~んとかに引っ掛かって、
しかも全国から応援に来ている警官だから、迂回路わっかりませ~ん状態で、相方ブチ切れ気味。
幸いCちゃんがまだ車は運転できなくても、途中からなら道分かるということでナビしてくれて、
たどり着くことが出来ました。


その時持って行ったもの、
食料品(レトルト等簡易食、調味料、ジャム、油、ペットボトルの水お茶野菜ジュース、)
    混ぜごはんの素、酢飯の素、お菓子、ガム、飴)
日用雑貨品(洗濯洗剤関係、ファブリーズ、除菌ナプキン、タオル、ティッシュペーパー、
      トイレットペーパー、リンスインシャンプー、ハンドクリーム、リップクリーム
      ビニール袋大中小、サランラップ、マスク、作業用ビニール手袋、軍手、)
衣類
あと、忘れた(笑)


その後もう一度行った時は食料品類と、生鮮食料品を生で、そして冷凍にして届けました。

(内陸に有る相方の実家と義兄の家も何とか無事でしたし、
流通も比較的早く復活したのですが、相当揺らされた為、
食器類が全て食器棚から投げ出され、割れてしまいました。
とりあえず、実家には日常使うであろう食器を送ったのですが、
やはりそれでは絶対的に足りず、我が家や母貞子の家で眠っていたモノと、
あと益子の陶器市に寄って品を見繕って行きました。)


石巻の街は震災後まず一週間、全く動きが無かったという状態でした。
確かに首都圏でも石巻のニュースは一切流れず、もっぱら三陸の津波の話題ばかりでした。
石巻は孤立していたんです。
情報が入っても出てもいなかったんです。
街は地盤沈下の為に引かない水で寸断され、潮の流れで瓦礫や被災した車が溜まるところが出来、
ご遺体がむき出しの状態で有ったそうです。
そんな中を街の人たちは毎日暮らしていました。
いわゆる風評的な怖い話も沢山出て来て、本当なのか、デマなのか、判断が付かない状態でした。
しかし、確かに治安は悪くなっており、明かりの無い街での夜間の外出や、
一人歩きは控えたそうです。

そして何より上下水道が全く機能していないので、トイレ等衛生面においてかなり困ったそうです。
前出の通り、何百人もの大所帯の避難所で、限られたトイレの数、そして下水に流せない状態で、
校庭の端に穴を掘って埋めるしかない現状。
流石に正義の味方の自衛隊さん達でも、お風呂の管理は出来てもトイレまではムリでした。
その後トイレの問題が解決するのは、彼女が通常の保育園業務に戻ったずっと後です。

石巻の街は震災を挟んで、すっかり様変わりしてしまいました。
それは街の景観だけではなく、人々の関係もです。
石巻にも当然貧富の差は有るわけで、特にそれは先祖代々受け継がれてきた土地、
歴史が左右しています。
今までお金持ちとされてきた人たちが街の中心に住んでいたのですが、
そこが津波でみんなやられてしまっただけでなく、地震により地盤沈下してしまい、
今後住む事が難しくなってしまいました。
また、家が残った人、家族が残った人、車が(財産)残った人が出て来て、
どうしても人の心に羨望が湧き上がってきてしまいます。
そうなると何となく、職場などでもグループが出来てしまうそうです。



震災復興。

あの日から5ヶ月になりますが、復興どころか未だインフラが復旧していないところが、
沢山有るのが石巻の今です。これは、他の被災地もおなじです。


震災復興。

物理的なモノが進んでも、人々の心の復興は遅れて来る場合も有るでしょう。


震災復興。

今、新たに福島第一原子力発電所からの放射能汚染が、宮城の海、野、山を脅かしています。
せっかく僅かに進んだ復興も、滞ってしまうかもしれません。


震災復興。

多分、ふと振り返った時、あぁやっと・・・、と思えた時が復興した時なのではないかと思います。
その時まで、休まず走り続けていかれるのか。
こぼれる人はきっといる。そんな人の手もしっかり握って、みんなで進んでいって欲しいものです。

スポンサーサイト
[2011/08/11 03:29 ] | とろ仲日記 | コメント(0) | トラックバック(0)
<<昨日のIKEA で | ホーム | お気に入りの場所>>
コメント
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバック URL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。